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呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。 == 歴史 == === 孫堅 === 孫堅は『孫子』の著者孫武の末裔を称していたが、その家格は低く、家柄が重視されていた後漢の政界の中では軽視されていた。しかし自らの実力をもって徐々に位を上げていき、黄巾の乱に於いては朱儁の配下に入り、功績を挙げて戦後に別部司馬(別働隊を率いる武将)となった。戦後も辺章・韓遂の反乱鎮圧に功績を挙げて長沙太守に任ぜられ、後に「江東の虎」と評された。 189年に洛陽で董卓が暴政を布いて関東諸豪族の反感を買い、反董卓連合軍が結成されると、孫堅も出兵してその中途に荊州刺史王叡・南陽太守張咨を殺し、袁術の配下に入って破虜将軍・豫州刺史の位を得た。 連合軍は初めから戦意に薄く、董卓軍とまともに戦おうとしたのは曹操と孫堅だけであった。孫堅は董卓と一進一退の攻防を繰り返し、董卓の武将・華雄(葉雄)を討ち取り、呂布を撃退した。その後、董卓は洛陽を焼き払い、歴代皇帝の陵墓を荒らして西の長安へと去っていった。孫堅は主のいなくなった洛陽に入り、復興と陵墓の修復に当たった。 この後、連合軍は内部での反目により崩壊し、武将たちは自らの兵士を連れて本拠地へと引き返して行った。191年もしくは192年、孫堅は荊州を完全に自分のものにするために劉表と争い、劉表の部将である黄祖の軍を打ち破るが、追撃途中に流れ矢(一説には落石)に当たって死亡した(襄陽の戦い)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉 (三国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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